こんにちは
2ndスクールオンライン 教室長の奥田みほです。
「勉強したらゲームしていいよ」
「宿題やらないと遊びに行かせないよ」
毎日お子さんにこのように言っていませんか?
よく耳にするフレーズですよね。
ここには勉強=楽しいことをするための交換条件という前提が潜んでいます。
果たしてこれは正しいのでしょうか?
さらに私が問題視するのは、日々このようなやりとりが行われている家庭における“勉強の価値”です。
子どもたちに、
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
と聞かれたら、あなたは何と答えますか?
今回のブログでは「どうして勉強しなくちゃいけないの?」という問いに、私なりに精一杯お答えします。
野生のライオンは、お腹がすけば獲物を追い、仕留め、食べます。自分が生きるために、自分で狩りをするのです。
一方の私たち人間は、多くの人は狩りをしません。
知恵と道具を得て、社会のなかで役割を分け合い、貨幣を介して食を得ます。
狩りをしなくても、誰かが育て、運び、売り、それを貨幣で買う。合理的で便利な世界ですね。
けれど便利さには、いつも『見えなくなるもの』が伴います。
ビーフカレーを作って食べようとするときは、カレーの食材をスーパーで買ってくるわけですが、その牛肉が皿にのるまでの時間と空間の厚み、過程で払われたコストや痛み、環境への揺らぎ。
私たちはその多くを目の前で見ません。
【便利は、責任を見えにくくする】
この言葉を、私たちはいつも心に留めておくべきです。
見えにくくなる因果の糸を、もう一度見えるように手繰り寄せること——それを私は「学び」と定義します。
勉強とは、私たちがこの交換の世界で他者と自分を傷つけないために、取り組むべきことです。
食卓に置かれた食事の向こう側に広がる風景を、見えるだけの視力を養う営みです。
ですから、勉強は「やったらゲームができる」などというような、『ご褒美のための苦役』でありません。
「勉強」とは理解→再現→改善の3つのプロセスです。
理解は、世界の仕組みを“見分ける”こと。
再現は、その仕組みで自分の手を動かしてみること。
改善は、一歩でも良い方向に世界との関係を作り替えること。
この三拍子がうまく回りだすと、知識は単なる記憶の在庫から、関係を表し、それらを繋ぐ方法に変わります。
学ぶほどに、選べる未来の枝葉が増えていくのです。
学びを通して、日常生活の中の、時間の使い方、言葉の選び方、他者との距離の測り方も少しずつアップデートされていきます。
それを「成長」というのかもしれません。
点数はその途中経過を示す計器にすぎません。私たちは「計器を上げるために飛ぶ」のではありません。「安全に遠くへ飛ぶために計器を見る」のです。
教育を考えるとき、私の原点には『学問のすゝめ』があります。
学ぶことは、身分や出自ではなく、自分の足で立つ自由を得る営みである——この視点は、時代を越えても決して古びないですね。
分業と交換で動く私たちの社会では、他人任せにしない、自ら判断するチカラこそが暮らしを支える基礎だと、福澤諭吉先生は語りかけてくるようです。
この基礎は、単に「強くあれ」という掛け声ではありません。
たとえば教科書の一行を
「なぜそう言えるのか」
と問い返し、自分の言葉で組み替える姿勢。
言い換えれば、自分の頭で、自分を世界とつなぐ姿勢です。
誰かの権威に寄りかかって安堵するのではなく、世界のほうへ一歩出て行く。学びはそのための杖であり地図であり、灯りでもあると言えるでしょう。
内田樹さんの言葉にも背筋を伸ばされます。
学びとは、他者に勝って順位を上げる競技ではなく、自分を刷新し続ける習慣である と。
便利さと制度の網の目のなかで、私たちは「見えない責任」を見落としがちです。
その見落としを減らす取り組みが、学びだということです。
この視線に立つと、勉強は「自分を更新する行為」になります。
昨日の自分の言葉では掬えなかった現象を、今日はもう少し精確に掴む。
昨日の自分では結べなかった関係を、今日は丁寧に結び直す。
世界の取り扱い方を更新する作業。それが続くと、人は次第に強くなります。
古典は自由の基礎を、現代思想は更新の作法を教えてくれます。二つが重なる場所に「理解→再現→改善」というプロセスが見えてきます。
「継続は力なり」という言葉を聞いたことがあると思います。
どういう意味だと捉えていますか?
「継続は力なり」は標語ではありません。
台所、通学路や、スマホの画面上にて、日々行われている選択のことだと思います。
情報の出どころをたどること。
数字の意味を丁寧に読むこと。
過去に誰かが何に困り、どう折り合いをつけてきたのかに耳を傾けること。
こうした営みは、善人になるための修行ではなく、世界との誤解や齟齬を減らすための練習です。
AIも同じです。
使える、速い、便利。
その先に、どんな責任が生まれるのか。どの部分を自分の手で引き受け、どの部分を道具に委ねるのか。
問いはいつも、私たちの側に返ってくる。学びは、その問いに柔軟に応答できる自分を育てます。
中学受験も大学受験も、ときに他者と比較し、過熱する競技のように見えます。
でも私は、入試がほんとうに確かめたいのは、受験者の単純な序列ではないと感じています。
与えられたテキストから因果を読み取り、自分の言葉で妥当な結論にたどり着けるか。個人的な経験を、社会の課題のどこに架橋できるか。選択の理由と検証の筋道を、借り物ではない声で語れるか。
受験を通して、この力がついてくると「覚えた知識」が「使える力」に変わり、選べる未来がどんどん広がっていくのです。
学校側も、おそらくそれを狙っています。
与えられたテキストから因果を読み取り、自分の言葉で妥当な結論にたどり着けるか。個人的な経験を、社会の課題のどこに架橋できる子どもに、入学してほしい!
それが試験という形になったものが入試だと考えられるでしょう。
テストの点や偏差値は、その過程を測る計器にすぎません。計器を上げるために飛ぶのではなく、安全に遠くへ飛ぶために計器を見るのです。
「なぜ勉強しなくてはいけないの?」という問いは、子どもだけのものではありません。
親は、大人は、子どもの背中を押す役でも、監督でもない。私は、灯りを持つ人でありたいと思います。
暗がりを叩いて不安を増幅させるのではなく、足元の地図を少しだけ明るくする人。
子どもの勉強は、親の見栄の衣装ではありません。
子どものなかに確かにある
「よりよく生きたい」
という衝動に、おとなは静かに寄り添うこと。
子ども自身のその衝動が、子ども自身の言葉を得たとき、子どもは他人からの評価からゆっくり自由になっていきます。
自由は、誰かから与えられるご褒美ではなく、学びながら手で掴みに行くものですから。
「勉強=交換条件」という考え方をあらためてみると、見えてくる景色があります。
私たちが今いる社会の仕組みと影をたしかめ、自分で扱える領域を少しずつ広げる。そのために、私たちは学びます。
自分を自由にし、他者と協働し、未来をほんの少しずつでもよくするために。
学びを手渡すこと、それが教育。
教育は、おとなが子どもへ渡せる、唯一の財産です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
抽象的な内容で、少しわかりにくかったでしょうか…
私が、お子さんの学びに寄り添う中で感じた「勉強とはなにか」を精一杯お伝えしました。
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