こんにちは
2ndスクールオンライン 教室長の奥田美保です。
このブログでは、これまで中学受験や大学受験における親の関わり方について、お伝えしてきました。
偏差値との向き合い方、親が不安になりすぎることが子どもにもたらす影響、子どもを追い込みすぎないこと。
どれも、今まさに受験の渦中にいるご家庭にとって、切実なテーマだと思っています。
ただ、実際にご相談を受けていると、今起きている困りごとの背景には、もっと前からの積み重ねがあると感じることが少なくありません。
勉強が嫌になってしまう子。
言われたことはやるけれど、自分で考えようとしない子。
反対に、時間がかかっても、自分で確かめようとする子。
これらの違いは、受験学年になって急に生まれるものではないように思うのです。
今回は、0歳の頃からの子どもとの関わり方について書いてみようと思います。
「こうしたら難関校に合格します」という話ではありません。
乳幼児期からの時間の使い方や、大人の関わり方が、その後の学び方につながっていく。
そのことを、実例を交えながらお伝えします。
子育てにおいて、とても大切だと感じている考え方があります。
それは、子どもを親の思うとおりに育て上げようとしないことです。
子育てをしていると、子どものことを「自分の子」として強く抱え込みすぎてしまうことがあります。
毎日、ごはんを食べさせて、服を着替えさせて、外へ連れ出して、お風呂に入れて、寝かしつけをして。
親は、子どものために本当にたくさんのことをしています。
だからこそ、知らず知らずのうち
「ちゃんと育てなくては」
「こうなっては困る」
「こうなってほしい」
という思いが強くなりやすいのだと思います。
でも、子どもは親の思うとおりに育て上げる存在ではありません。
親の安心のために整える“作品”でもない。
ひとりの人として、この世に預かった存在なのだと思います。
そう考えると、親の役目とは何か少し見えやすくなります。
何かを教え込むことや、失敗しそうになったときに先回りして防ぐことよりも、その子がその子らしく育っていくための環境を整えること。
私は、そこに親の大切な役目があると感じています。
子どもが困りそうなとき、つい手を出したくなる。
失敗させたくなくて、先回りしたくなる。
それは自然なことです。
でも、
その関わりは本当に子どものためになっているのか。
それとも、親である自分の安心のためなのか。
ときどき立ち止まって考えてみることには、意味があるように思います。
子どもを『親の作品』にしない。
この視点を持てると、親の焦りや過剰な期待に少し距離を取れるようになります。
そしてそのことが、結果として、親子それぞれが健やかに暮らしていくことにもつながるのではないでしょうか。
私が尊敬している臨床心理士の先生に、教えていただいた言葉があります。
「子どもが起きている間は家事をしないこと」
なぜなら、家事も片手間、子どもとの関わりも片手間になってしまうからです。
乳児であっても、幼児であっても、その子なりの生活リズムがあります。
お昼寝しているとき。
寝かしつけのあと。
朝、子どもが起きる前。
そうした時間に、集中して家事を片づけるのです。
家事の片手間に子どもと接していると、子どもに話しかけられても、
「ちょっと待ってね」
と言うことが増えるでしょう。
その「ちょっと待ってね」が積み重なると、子どもの側も、だんだん話しかけることをやめていきます。
また、家事の片手間に子どもと接していると、子どもの小さな変化を見落としやすくなります。
「子どもが起きている間は家事をしない」
を意識していると、実に様々なことが見えてきます。
何を見ているのか。
何に引っかかっているのか。
何に夢中になっているのか。
どんな表情で、どんな声を出しているのか。
子育てのノウハウ本やサイトには、何歳で何ができるとか、どんな働きかけがよいとか、どんな教材がよいとか、さまざまな情報があります。
でも私は、何を与えるかの前に、まず子どもをよく見ることが大切だと思っています。
こちらが黙って見ている間に、子どもの中で何かが動き出します。
「あれ?」
「なんだろう?」
「すごい!」
「どうしたらできるかな?」
そんなふうに、子どもの内側で好奇心という名のエンジンを回し、試行錯誤を繰り返しているのです。
それを邪魔せずに見守っていられるかどうか。幼い頃は、これが案外大事なのではないでしょうか。
勉強がうまくいかない子を見ると、つい
「何をさせるか」
に目が向きます。
でも本当は、その前に、その子がどこで止まり、何を嫌がり、どこに関心を向けるのかを見なければ、関わり方は決まりません。
乳幼児期から中学受験に至るまで、まず必要なのは、何かを教え込むことより観察なのだと思います。
親が子どもをよくみてきた家庭ほど
「この子はどこでつまずいているのか」
「何が引っかかっているのか」
を、受験期になっても見失うことがないように感じます。
小さい子どもと外に出かけたとき、大人はつい時間で行動を区切りたくなります。
そろそろお昼だから。
このあと買い物もしなくてはいけないから。
もう十分遊んだでしょう。
早く帰らないと夕方になるから。
でも、子どもの時間は大人のスケジュールとはなかなか合いません。
踏切が下がって、電車が通って、また踏切が上がるのをじっと見ている。
動物園へ行ったのに、動物はほとんど見ずに地面の石畳を観察している。
道端にしゃがみ込んで、何かに見入っている。
大人から見ると「何がそんなに楽しいのだろう」と思うようなことが、子どもにとっては知的好奇心を強く揺さぶられる刺激だったりします。
正直なところ、これに付き合う大人は疲れます。
誰でも疲れます。
もう十分見たでしょう、帰ろうよ、と思うことでしょう。
それでも、なるべく子ども自身が納得するまで待てるといいですね。
子どもは遊んでいるというより、何かを確かめているのかもしれません。
見て、比べて、繰り返して、自分なりに整理している。
その途中で大人の都合で区切りを入れてしまうと、集中が途切れてしまいます。
勉強になると「集中力」が話題になりますが、集中力は机の上だけで育つものではありません。
何かを飽きるまで見つめる時間。
やり切るまで離れない時間。
そういう経験の中で、少しずつ育っていくものもあると思います。
「もう帰るよ」と強制的に終わらせることが多いと、子どもは自分の興味よりも、大人の都合を優先することに慣れていきます。
もちろん、毎回好きなだけ付き合えるわけではありません。現実には予定もありますし、親にも体力の限界があります。
それでも、いつも急かすのではなく、ときには子どもが納得するまで待ってみる。
その経験は大きいと思います。
もし、大人の都合で、どうしても子どもの集中を中断しなくてはいけないときは、せめて子ども自身が集中を切り替えられるような声かけをしましょう。
例えば、踏切を数時間にわたり見ていて、そろそろ日没…というときは、
「暗くなってきたね、お夕飯は何を食べようか。これからスーパーにお夕飯のおかずを買いに行く?」
と聞いてみます。
子どもが、ふと周りが暗くなりかけていることに気づき、夕ご飯のこと、スーパーの買い物のことを考え、
「スーパーに行く」
と言って、自分で踏切を見るのを止める。
「もう暗くなったから帰るよ」
と言われて踏切を見るのを止めるのとは、似ているようですが全く違いますよね。
子どもは、ある時期になると大人を質問攻めにします。
どうして?
なんで?
これ何?
忙しいときに何度も聞かれると、つい適当に流したくなります。
大人だって疲れていますし、答えられないようなことを聞かれることもあります。
なぜか同じことを何度も何度も質問してくることもありますね。
思わず
「その質問、今日だけでもう8回目なんだけど!」
「いま忙しいから、あとでね」
と言いたくなることもあるでしょう。
それでも、できるだけ丁寧に受け止めたいものです。
もちろん、全部その場で説明できるわけではありません。
大人にだって、わからないことはたくさんあります。
そんなときは、
「誰に聞いてみようか」
「どうやって調べようか」
「本に載っているかな」
「一緒に見てみようか」
そうやって、答えを与えるより先に、問いとの向き合い方を一緒に経験することが大切です。
何かわからないことにぶつかっても、思考を止めない。
知らないまま終わらせず、確かめる道筋を探す。
すぐに正解が出なくても、その状態に少し耐えてみる。
こうした姿勢は、中学受験期に自ら勉強に向かう力にもつながっていきます。
最近の子どもたちを見ていて気になるのは、勉強ができるかどうか以前に、まず
「問いに向き合う姿勢づくり」
が必要な子が増えていることです。
わからないことがあると、すぐに
「わからない」
「知らない」
「習っていない」
と、思考を止めてしまう子がいます。
一方で、すぐ答えが出なくても、
「どうしたらいいのかな」
と自分なりに考え続ける子もいます。
この違いは、能力だけでは説明しきれません。
子どもの
「どうしてだろう?」
に、大人がどのように付き合ってきたか。
そこには長い積み重ねがあるように思います。
問いにきちんと向き合ってもらった子は、
「わからないことがあっても大丈夫」
「一生懸命考えればよい」
という感覚を持ちやすくなります。
反対に、問いを軽く流されたり、すぐに打ち切られたりすることが多かった子は、
「わからないことは聞かないほうがいい」
「考えてもどうせ無駄だ」
という感覚を持ってしまうこともあります。
問いに向き合う姿勢は、急に身につくものではありません。
毎日の小さなやりとりの中で、少しずつ育っていくものなのだと思います。
子どもの学びの土台を考えるとき、私は「ことば」の存在をとても大きく感じます。
乳幼児期というと、何か特別な教材を与えたほうがよいのではないか、早いうちから知識を入れたほうがよいのではないか、と考える方もいらっしゃいます。
けれども実際には、もっと手前の、もっと地味なところに大切なものがあるように思います。
たとえば、絵本の読み聞かせです。
たくさん読めばよい、難しい本を早くから読めばよい、ということではありません。
寝る前に数冊、落ち着いた気持ちで親の声を聞く。
同じ本を何度も読んでもらう。
ことばの響きやリズムを、安心した時間・空間の中で受け取る。
そういう経験は、目には見えにくくても、確かに子どもの中に残っていきます。
幼い子どもは、ことばをただ覚えているわけではありません。
耳で聞き、口に出して、少しずつ自分のものにしていきます。
大人からすれば何気ないやりとりでも、子どもにとっては、ことばの世界を広げていく大事な時間です。
また、暗唱のように、ことばを声に出して味わう経験も、私は意味があると感じています。
難しい内容を理解させることが目的ではありません。
まずは、耳に残ることば、口にのぼることばを持つこと。
その積み重ねが、あとから思考の支えになることがあります。
最近の子どもたちを見ていて感じるのは、知識の量以前に、自分の感じたことや考えたことをことばにできない子が少なくないということです。
「わからない」と言うけれど、何がわからないのかは自分でもはっきりしていない。
「できない」と言うけれど、どこで止まっているのかを言い表せない。
そういう場面は、学年が上がるほど増えていきます。
だからこそ、幼い頃からどんなことばに触れてきたかは大切です。
「知能を高める」と謳った教材より先に、日々の会話がある。
生活の中に絵本がある。
繰り返し口に出したことばがある。
そういうものが、あとから子どもの考える力を静かに支えていくのだと思います。
ことばは、単に語彙が増えるという話ではありません。
感じたことを整理する力。
自分の中で考え続ける力。
人に伝える力。
わからないことを、わからないままにしない力。
そうしたものとも深くつながっています。
受験期になると、つい
「何を覚えるか」
「どれだけ解けるか」
に目が向きます。
けれども、その手前には、ことばに支えられた思考があります。
そこが育っていないと、ただ丸暗記を繰り返すだけになりやすい。
反対に、ことばの土台がある子は、自分の頭で整理しながら学んでいけるようになります。
ここまで、乳幼児期の関わり方について書いてきました。
こうして並べると、どれもすぐに結果が見えるものではありません。
偏差値のように数字で表せるものでもありません。
だからこそ、忙しい毎日の中では、後回しにされやすいのだと思います。
けれども、実際には、こうした積み重ねの先に、その子なりの学び方が形づくられていきます。
そうしたものは、受験学年になって突然身につくものではありません。
勉強が本格化する前から、家庭の中で少しずつ育っているのだと思います。
受験期に入ると、親も子も余裕を失いがちです。
目の前の課題、模試、志望校、スケジュール管理。
考えなくてはいけないことが多すぎて、つい「今すぐ結果につながること」ばかりを探したくなります。
けれども、学力の土台はもっと前から育っています。
言い換えれば、受験期に苦しさが表面化したとき、その背景にはずっと前からの関わり方が隠れていることもあるのです。
ですから私は、受験のご相談を受けるとき、成績表や志望校だけではなく、その子がどんなふうに育ってきたのか、ご家庭の中でどんな時間が流れてきたのかも大切に考えたいと思っています。
子育ても受験も、つい目に見える結果を追いかけたくなります。
もちろん、それらは現実の進路に関わる大切な情報です。
けれども、その数字の手前には、もっと長い時間があります。
親子がどんなふうに過ごしてきたのか。
子どもがどんなふうに遊び、ことばに触れ、問いを持ってきたのか。
そこを抜きにして、今の困りごとだけを整えようとしても、うまくいかないことがあります。
私は、今の成績や志望校だけを見るのではなく、その子がここまでどんなふうに育ってきたのかを大切にしながら、ご家庭のお話を伺いたいと思っています。
もし今、お子さんの学び方や関わり方に迷いがあるなら、目の前の勉強だけでなく、もっと手前のところから見直してみることにも意味があるかもしれません。
幼い頃からの積み重ねの先に、今の姿があります。
そして、今から整えられることも、まだたくさんあります。
ご家庭の中で気になっていることがありましたら、ご相談ください。
目の前の点数だけでは見えないものも含めて、一緒に考えていけたらと思っています。